人間は時々、わけわからんくらいに感動したりすることがあります。
それは、音楽、言葉、映像、風景、物、人、意味、香、感覚 et cetera...
ある映画を見て、言葉にならんほどの感動を味わいまして、それはなんだろうと考えた時に、ふと思うのは、作品そのものの持つ魅力はもちろんだけれど、全ての事において言えるのは、それを『受け取る』自分側のコンディション。
そのタイミングで見たからこその感動だったんだなーって思いました。
その時間、その時の気分、環境、ぜーんぶが合わさった時に生み出すパワーみたいなものが僕はあると思う。
なんだろう、こうゆう感覚に出会った時、もうどうでもよくなる!(マイナスの意味じゃなくてね笑)
どうでもいいと言うか、どうしようもないよね。
衝撃とも違う、染み込んでくるようなタイプの感動。
自分は一体何のために生きるのだろうとか、何故ここに居るんだろうとか、そんな類いの鬱憤を消化するには、誰かの力が必要なんだと思う。自分から発信するものではなく、受けるもの。
そして自分自身もそれを誰かに感じて欲しくて、こうして書いたり創ったりするのかなあ、と。
1は1であることを、それ自身では証明出来ない。
ヒトで言う所の自己言及のパラドックス。
それでいいんだよ、多分。 そう、この”多分”がまさに自己が自己の真偽を計れないパラドックス。だからこそ、確かな事が掴めない。
ちょっとわけわからなくなっちゃったけど、まあそれぐらいで丁度良いんだろう。
どうしても、ヒトがヒトであるために必要な事は、不完全さだ。
そう思いました。
アントワープにも桜が咲いています。
毎日自転車で出かけるんだけど、このごろは気温も上がってほんとに気持ちいい!
自然ってすごいなあ。いつまで経ってもすごいんだろうなあ。
そんな春のアントワープの一枚です。+チャリンコです。
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